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石井琢朗コーチの就任を正式発表 相川コーチも招聘か

横浜DeNAベイスターズは11月13日、前読売3軍野手コーチの石井琢朗氏と2022年のコーチ契約を結ぶことを発表した。2008年オフに自由契約となり、広島へ移籍して以来、14年ぶりに古巣への復帰となる。広島で2012年に引退して以来、ヤクルト、読売とセ・リーグ3球団でコーチを歴任して来た手腕に期待が集まる。

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共に前年の最下位チームが引き分けで決着

2021年のプロ野球は、史上初となる両リーグの前年の最下位チームであるヤクルト、オリックスが優勝。その2チームが戦ったクライマックスシリーズのファイナルステージも、史上初の引き分けでの決着となった。両チームとも最初の2戦で完封勝ちを収め、同じような展開で引き分けとなり、3試合2勝1分で日本シリーズ進出を決めた。

コロナ禍により9回打ち切りとした為、ソフトバンクの21を筆頭に全チームが2桁の引き分けを記録した2021年。まさにそれを象徴するような、引き分けでの幕切れ。オリックスの場合は、実質はもう一人ランナー還ってサヨナラ勝ちにできた状況だが、記録的に引き分けの時点でステージ勝ち抜けが決まる為に引き分けとなった。

ベイスターズと関係ない試合は興味が薄いと書いたが、このカードの対戦はちょっと楽しみになった。3試合でファイナルステージが終わってしまったので丸々一週間空くが、コンディションを整え、素晴らしい日本シリーズを見せてもらいたい。

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読売のシーズン終了で正式発表

ファイナルステージがヤクルトの勝利で終わったことで、ベイスターズファンは石井琢朗コーチの正式発表を待ちわびた。Twitterのトレンドには、高津監督や中嶋監督ではなく、「石井琢朗」がトレンド入りする事態にもなった。

11月3日に斎藤隆、鈴木尚典、小杉陽太の3コーチの就任が発表されたが、同じタイミングでスポーツ紙面に石井琢朗氏の名前もあった。読売の退団は前日2日に発表されていたが、CSを戦うチームへの配慮もあり、ベイスターズのコーチへの就任は発表されていなかった。

CSが12日に終了し読売がシーズン終了となったことで、満を持して翌13日に正式発表となった。実に14年ぶりの古巣復帰。大洋時代、1998年の優勝当時、2000年代と、その頃からのファンにとっては、特に感慨深いものはあるだろう。

横浜大洋に投手として入団し、高卒ながらルーキーイヤーで初勝利をマーク。しかし、本人も高校卒業の時点で野手をやりたいと思っていたように、なかなか結果は続かずに3年目に野手転向。横浜ベイスターズに生まれ変わった1993年にレギュラーとして定着、盗塁王のタイトルを獲得した。

石井琢朗の成長と共に、同年代の選手たちも力を付け、1998年にリーグ優勝し、日本一に立った。しかし、優勝メンバーも次第に散り散りになり、チームは低迷が続くようになった。その中でも主力としてチームを引っ張り続けたリードオフマンにも戦力外が告げられた。ずっと見て来たファンとして、彼の引退までを見届けられない残念さはあったが、まだできるのではないかという思いもあった。

広島に移籍してファンに歓迎され、引退後に名コーチに駆け上がる姿を複雑な思いで見ていただけに、この14年ぶりの復帰は、単にOBがコーチに就任したという以上のものがある。思いの丈が強過ぎて、近年のファンからは引かれそうだが、3つほど書いておきたいエピソードがあるので、ちょっと長過ぎるが、書き切ってしまう。(石井琢朗特集で別記事にすべきレベルかも知れない)

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2006年に2000本安打達成

このチームの歴史上、生え抜きとして2,000本安打を達成したのは、松原誠氏と石井琢朗氏だけ。その石井氏が2,000本安打を達成した2006年5月11日は、現地に行っていたのだが、当ブログの記事はなし。最近までは毎日のようには書いていなかった。代わりに前日の試合の記事があった。

前日のサヨナラ四球を受けての試合。1回裏、早速最初の打席が回って来る。投手は楽天の愛敬。

初回の打席。2006年もコロナだったわけではない。18時過ぎとは言え、ここまで空席だった。一塁は波留コーチ

3球目の変化球を打ち返し、打球は愛敬の足元を抜け、そのままセンターへ到達。最初の打席で2,000本安打を達成した。仕事帰りに駆け付けようと思っていた方々の思いをよそに、早々に達成してしまった。少数ながらも大きな歓声が送られた。

楽天の山崎武司から花束が手渡される

試合の方は、谷中が村田への死球で頭部には当たっていないものの危険球と判断され、ひと悶着。結果としては4-8で敗れている。

敗戦ながら記録達成のインタビュー。今見ると何かゴチャゴチャしてるな
ライトスタンドへ挨拶に向かった石井琢朗

2,000本安打を達成する瞬間はなかなか見られないと思い、試合開始から行けて良かった。

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2008年に戦力外通告を受け広島移籍

2008年は、いろいろなことが動いた。前年、大矢監督が復帰し4位だったものの、71勝72敗と成績が好転。1997年に2位となり優勝への足掛かりを作った大矢監督に期待が集まったが、2008年は開幕3連敗でスタートすると、村田、内川、吉村らがいくら打っても投手陣が壊滅。2003年以来の94敗を喫し、ダントツの最下位。勝率.338は、首位打者を獲得した内川の打率.378よりも遥かに低かった。

チームは変革に向け、1998年優勝の功労者である石井琢、鈴木尚に戦力外通告を行った。石井琢は自由契約となり広島へ移籍。鈴木尚は、横浜以外でのプレーは考えられないとして引退を選んだ。そして、三浦と相川がFAを取得。三浦はご存じの通り、阪神移籍と残留に揺れ、最終的には残留を選んだ。相川はMLBへの移籍を模索した結果、ヤクルトへの移籍を決めた。

広島に移籍後、広島の応援団は、横浜ファンの気持ちをくんで、応援歌をそのまま使うことを決め、横浜応援団の厚意もあって実現した。上記のブログに書いた通り、広島のファンは石井を愛してくれた。それは、石井が引退する2012年、さらに強く感じることになる。

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2012年、神様がくれたラストゲーム

2012年に引退を決意した石井琢朗は、マツダスタジアム最終戦の9月30日、引退試合として1番ショートで出場。引退セレモニーも行われた。しかし、その後も登録抹消はされず、10月8日のハマスタでのDeNA戦でプロ生活最後の試合を行った。

横浜DeNAベイスターズ初年度のホーム最終戦だった。雨天中止によってこの日に振替試合となり、現役最後の試合をハマスタで迎える運命となった。試合前には異例の引退セレモニーが行われ、広島の協力もあって、復刻版の石井琢朗グッズが販売された。

この日もハマスタに行っていたのだが、ブログは投稿しておらず。せっかくなので、少しだけここに書きたいと思う。1番ショートでフル出場し、石井の打席では360度全てのファンが、あの応援歌を歌った。

初回、石井琢朗が現役最後の試合の打席に入ると満員の観客から大声援が送られた
中畑監督1年目、まだこんなに入るのは珍しいことだった

こちらはYou Tubeにshivmovieさんがアップしている当日の模様。

この日、引退試合を迎えた新沼には悪いが、まさに石井琢朗の引退試合というような雰囲気だった。特に最後の打席は、石井も涙を浮かべていたし、ファンの多くも涙したと思う。広島移籍で、叶うことがなかったはずの石井琢朗の引退試合が、ビジターという形ではあるが現実のものになった。

試合後、場内一周。球場全体から大きな声援が送られ、応援歌が続いた

横浜では彼が納得の行くまで現役を続けさせてあげることはできなかったが、広島の4年間でファンにも愛され、125安打を重ね、球団史上最多の2307安打を放った名選手がバットを置いた。

2018年のハマスタ40周年のコンセプトムービーでは、OBとしてコメントを寄せ、この引退試合について「神様が用意してくれたのだと思って、感謝の気持ちでした」と振り返っている。やはり石井琢朗が一番輝くのはハマスタだろう。

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コーチとしての期待

ポジションは後日発表となるが、打撃はもちろん盗塁王4回の走塁、ゴールデングラブ4回の守備を誇る走攻守で活躍した選手だけに、読売でもそうだったように野手総合コーチのような形を期待したい。ヘッドコーチという肩書を付けるのかどうか分からないが、どちらかというとコーチとして職人のような道を歩んでいるので、ヘッドコーチのような中間管理職的な役割よりも、選手へのコーチングに特化した方が良いのかなと思う。

FAなどでの補強は難しいチームなので、読売で3軍野手コーチに配転した時から、退団するのであれば石井琢朗コーチを迎えることが、今オフできる最大の補強なのではないかと思っていた。その悲願は叶ったわけだが、前にも書いたようにコーチがプレーするわけではない。

それでも、広島での3連覇に貢献するコーチとしての実績、ヤクルトでも在籍時はチーム成績に結び付いていないが、投手が整備されればと言われるくらいの打力はあったし、読売でも優勝を経験している。このセ・リーグ3球団で実績を持つコーチの希少性。それが、長くこのベイスターズで活躍した選手でもあるのだから、帰って来てもらいたいと思うのは当然。

家族の都合で東京圏に戻ることになり、2017年限りで広島を退団。その際はDeNAではなくヤクルトのコーチに就任した。2019年にヤクルトを退団した際も読売への移籍になった。DeNAが声をかけていたのかどうかは分からないが、素人の憶測としては野手出身であり打撃が専門のラミレス氏が監督であったため、石井琢朗コーチは招聘しなかったのではないか。

また、チームとしてコーチを育成するという方針もあり、打撃コーチは経験のある小川氏に加えて2015年に初めて補佐としてコーチに就任した坪井コーチの布陣。小川氏が退任し、田代コーチが復帰した2019年は、石井コーチもヤクルトを退団しているが、この時点でも就任には至っていない。

三浦監督が投手出身であり、打撃も含めて総合的に野手側を見るという部分で、石井コーチはマッチしているのかも知れない。2020年にファームで三浦監督をサポートした万永コーチもいるが、他球団でのコーチ経験なども踏まえれば石井コーチの方がアドバンテージはありそうだ。

フロントとしても満を持して据えた三浦監督をバックアップし切れなかったという思いはあるだろう。また、石井コーチにとっても三浦監督であり、鈴木尚典コーチや斎藤隆コーチもいるという環境は、14年ぶりに戻るには良いタイミングなのかも知れない。

一部のファンは、球団が石井コーチに土下座してでも帰って来てもらえと言っていたが、本当のところは当人にしか分からない。だが、ハマスタ40周年のVTRでは、ヤクルトのユニフォームで、ハマスタでのラストゲームへの感謝を語り、ハマスタは「石井琢朗発祥の地です」というメッセージも残していた。2019年のファンフェスでは、歴代ベストナインに選ばれ、「再び一緒に戦える日を夢見ています」とメッセージを送っている。

もちろん、リップサービスの部分はあるだろうが、自分がプロに入って育った球団でいつかはという気持ちがあったと信じている。まさに、その一緒に戦う日が来年やって来る。最下位からの巻き返しは簡単ではないし、コーチに就任してすぐに結果が出るものでもない。それでも、ベイスターズの為に再び力になってくれることに期待したい。

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相川コーチも招聘へ、FA移籍からの復帰

読売のシーズン終了に伴い、コーチの去就も報じられた。その中で、相川バッテリーコーチの退団とともに、DeNAが招聘に動いていることも報じられた。こちらはまだ正式発表されていないが、もし事実だとすれば、近日中に発表されることになるだろう。

石井コーチは、戦力外通告を受けて、自由契約になっての移籍から14年ぶりに復帰となるが、相川コーチが復帰すると、同じ2008年にFA移籍して以来となる。FAで国内移籍した選手は、コーチも含めて戻って来た例がない。かつて横浜を出る喜びと言われたように、暗黒時代のベイスターズから出た選手で、現役を引退している選手は他球団で監督やコーチになっている。谷繁、門倉、金城、村田といった面々だが、彼らが再びベイスターズのユニフォームを着ることへの布石になるかも知れない。

相川コーチについては公式発表があってから書きたいと思う。なお、11月3日に発表された、斎藤隆コーチ、鈴木尚典コーチ、小杉陽太コーチの記事はこちら。

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